こんにちは、歌流茶亭の星海奏です。
「忘れられた歌」シリーズの第2巻ができました。今回はヨハンナ・キンケルという人の歌曲集です。
前回のジョゼフィーヌ・ラングを調べたときは、150曲以上を書いた人が知られていないという落差に驚きました。今回は、驚き方が違いました。この人の経歴を読んでいくと、途中から音楽史ではなく冒険小説を読んでいる気分になります。
夫が政治犯として要塞監獄に入れられたとき、脱獄計画を立てて成功させたのは、彼女です。
ベートーヴェンと同じ街に生まれ、その先生に習う
ヨハンナ・キンケルは1810年7月8日、ドイツのボンで生まれました。ベートーヴェンが生まれた街です。旧姓はマリア・ヨハンナ・モッケル。お父さんは中等学校の教師で、家はカトリックでした。
音楽の才能は早くから現れましたが、ご両親はそれを積極的には後押ししなかったと伝えられています。それでも彼女は、フランツ・アントン・リースという人に習う機会を得ました。この人は、若い日のベートーヴェンにヴァイオリンを教えた人でもあります。
19歳のとき、地元の音楽協会のために『鳥のカンタータ』作品1を書きました。この曲は9年後、ベルリンの出版社から世に出ています。
当時、女性が書いた作品が印刷されて流通すること自体が、ほとんどありませんでした。同時代のファニー・ヘンゼルでさえ、多くの作品を手稿のまま残しています。ジョゼフィーヌ・ラングにいたっては、150曲以上を出版してなお、出版に至らなかった手稿のほうが多く残されました。
その状況で、最初の作品を出版まで持っていった。19歳の作品が、9年かけて印刷所まで辿り着いたということです。
半年で終わった結婚と、7年かかった離婚
22歳で、彼女は出版業者と結婚します。この結婚は半年で破綻して、彼女は実家に戻りました。正式な離婚が成立したのは、その7年後です。
このことが、後々まで影を落とします。彼女の作品は、最初の夫の姓である「マティウ」名義のものと、再婚後の「キンケル」名義のものに分かれて出版されました。図書館の目録では、この二つが別人として扱われていることさえあります。
半年で終わった結婚の痕跡が、楽譜の表紙に残り続けている。作品がまとまって見えにくくなった原因のひとつが、こんな単純なところにあります。男性の作曲家には、あまり起こらないことでした。
ベルリンの3年間
1836年、彼女はベルリンに出ます。ここからの数年が、作曲家としての彼女を決めました。
ピアノをヴィルヘルム・タウベルトに、作曲をカール・ベーマーに学びます。そしてベッティーナ・フォン・アルニムの家に下宿しました。ベッティーナはゲーテやベートーヴェンと交流のあった作家で、その家はベルリン文化の中心のひとつです。彼女はそこで開かれていた「日曜音楽会」に参加して、ファニー・ヘンゼル(メンデルスゾーンのお姉さん)と同じ場に居合わせています。
この時期の作品7の歌曲は、批評家ルートヴィヒ・レルシュタープに賞賛されました。シューベルトの歌曲の詩人としても知られる、当時いちばん影響力のある批評家のひとりです。
彼女もフランクフルトでメンデルスゾーンに会って、作曲を続けるよう励まされています。前回のラングとまったく同じ道筋です。この時代、才能ある女性が世に出るには、力を持つ男性の推薦を経由するしかなかった。そのことが、二人分の記録から見えてきます。
1848年、そして脱獄
1839年に離婚が成立したあと、彼女は神学者で詩人のゴットフリート・キンケルと出会い、1843年に結婚します。子どもは4人。末の子が生まれたのは1848年でした。
その1848年に、ドイツ三月革命が起きます。
当時のドイツはまだ統一国家ではなく、多くの領邦に分かれていました。憲法も議会も持たない領邦が大半で、言論は統制されていました。パリの革命が引き金になって、統一と憲法を求める運動がドイツ語圏全域に広がります。
キンケル夫妻は、ともに革命の側に立ちました。ヨハンナは『新ボン新聞』の編集に関わって、その論調を急進化させています。作曲家が新聞を急進化させる、という経歴はそう多くありません。
翌1849年、運動は軍事力で鎮圧されました。夫ゴットフリートは武装蜂起に加わって捕らえられ、終身刑を宣告されて、シュパンダウの要塞監獄に収監されます。当時の政治犯にとって終身刑は、事実上の社会的抹殺でした。
1850年11月、彼は監獄から脱走します。その計画を立てたのが、彼女でした。
夫は無事に脱出し、一家は1851年にロンドンへ亡命します。以後、彼女は4人の子と夫を、音楽で養いました。ピアノを教え、合唱を指揮し、作曲を続けながら、大英博物館に通って音楽学の研究にも取り組んでいます。
音楽について書く人でもありました
彼女は書く人でもありました。音楽についての論考をいくつも残していて、なかでもショパンについて書いたものは、今も価値ある文献として参照されます。同時代の人がショパンをどう聴いたかを伝える、数少ない証言だからです。
作品として残ったのは、歌曲がおよそ80曲、二重唱が12曲ほど、ほかに合唱曲などです。交響曲やオペラは書いていません。それは能力の問題ではなくて、当時の女性が発表の場を得られたのが家庭音楽の領域だけだった、という単純な事情によります。
書ける場所が家庭とサロンしかなかった人に対して、「家庭とサロンの音楽しか書かなかった」と評するのは、順序が逆です。そして彼女が興味深いのは、その限られた領域の内側で、できることを全部やっている点です。作曲だけが音楽との関わり方ではない、ということを彼女の経歴は示しています。
収録曲について
Vol.2には44曲を入れました。全部で1時間2分あります。調や拍子は、私たちが使った楽譜データから実測したものです。
曲順は作品番号順に並べました。出版の順におおむね対応するので、初期から後年へと歩みをたどる並びになります。
作品6(5曲)— 初期の筆
アルバムはここから始まります。ベルリンに出る前後の、初期の作品です。
1曲目が変ロ長調の2拍子で49秒。2曲目だけが2分あって、あとは1分前後です。4曲目にト短調が置かれていますが、こちらは30秒。短調の曲がまだ短く、影のように扱われています。
作品7(6曲)— レルシュタープが賞賛した曲集
批評家ルートヴィヒ・レルシュタープに賞賛されたのが、この曲集です。
短調が3曲あります。2曲目の嬰ヘ短調、4曲目のホ短調、そして6曲目もホ短調。1曲目は8分の9拍子で、複合拍子から始まります。
賞賛されたのがこの曲集だったことには納得がいきます。短調の使い方が、直前の作品6より明らかに踏み込んでいるからです。4曲目のホ短調は1分48秒あって、この曲集で最長。短い影ではなく、正面から短調を扱い始めています。
作品8「6つの詩」(6曲)
拍子がばらばらな曲集です。3拍子、4拍子、8分の6拍子、そして4曲目は8分の12拍子。12拍子は、1拍が3つに割れる拍子をさらに4つ束ねたもので、大きくうねる動きになります。その4曲目がハ長調で2分32秒、この曲集の中心です。
5曲目にヘ短調が来ます。44秒しかありません。前後を長調に挟まれた、短い影です。
作品10「6つの歌曲」(6曲)
6曲で5分半。ひとつひとつが短い曲集です。1曲目は32秒、6曲目は26秒しかありません。
後半の5曲目がニ短調、6曲目がト短調。長調で始まって短調で終わる構成です。26秒の短調で締めくくるという終わり方は、かなり潔いと思います。
作品11「3つの二重唱」(3曲)
44曲の中で唯一の二重唱集です。3曲とも2分から3分あって、収録曲では長いほうに入ります。1曲目と2曲目が8分の6拍子、3曲目が4拍子で3分04秒。
二重唱をピアノ独奏で弾くと、二人の声が一つの楽器の中で重なります。歌う人間としては、これがけっこう不思議な体験でした。本来は別々の人が歌う線が、同じ鍵盤の上で交差していきます。
作品15「6つの歌曲」(6曲)
44曲でいちばん長い曲が、この曲集の1曲目です。ニ長調の4拍子で2分52秒。5曲目もト長調で2分42秒あります。
作品10が短い曲を積み重ねる曲集だとすると、こちらは腰を据えた曲集です。同じ「6つの歌曲」という題名でも、中身の設計がまるで違います。2曲目のト短調も1分24秒あって、短調の扱いがさらに大きくなっています。
作品16「6つの歌曲」(6曲)
8分の6拍子が3曲、12拍子が1曲。複合拍子に寄った曲集で、全体に揺れる動きがあります。
1曲目がイ短調で20秒。アルバム全体で最短の曲です。20秒の短調から始めて、あとの5曲を長調で進める。入口だけ暗くしておく作り方です。
作品19「6つの歌曲」(6曲)— 短調が中心に来る
アルバムを締めくくる曲集です。そして、短調の扱いがここで頂点に達します。
2曲目のヘ短調が2分46秒あって、この曲集でいちばん長い曲になっています。4曲目もイ短調。作品6では30秒の影だった短調が、ここでは曲集の中心を占めています。
初期から順に聴いてきた耳には、この配置がはっきり分かります。ロンドンに亡命したあとの人が、短調をどう扱うようになったか。作品番号順に並べてよかったと思ったのは、この流れが見えたからです。
最後の6曲目は変ロ長調の4拍子。44曲は長調で閉じられます。
短調が11曲あります
終わりの和音から判定できた範囲で、長調が18曲、短調が11曲でした。判定しきれなかった曲もあるので正確な比率ではありませんが、短調の曲がはっきりと存在します。
これが、前回のラングとの大きな違いです。ラングの25曲には、短調で終わる曲がひとつもありませんでした。
同じ時代に、同じようにメンデルスゾーンに見出されて、同じように家庭音楽の領域で書いた二人です。それでも、片方は暗く終わる曲を一曲も残さず、もう片方は11曲残しました。
亡命者として異国で暮らし、新聞を急進化させ、監獄から夫を脱獄させた人の音楽です。そう思って聴くと、短調の曲がどこに置かれているかが気になってきます。初期の作品6では30秒の影として、後年の作品19では2分46秒の正面から。
開いた窓
1858年11月15日、ヨハンナ・キンケルはロンドンの自宅で、開いていた寝室の窓から転落して亡くなりました。48歳でした。
事故だったのか、自ら身を投げたのかは、今も分かっていません。亡命生活の困窮や健康の悪化など、後者を推測させる材料はいくつもありますが、断定できる資料はないのです。
彼女の死は、生涯の最後まで劇的でありながら、決着のつかない問いとして残されました。
音にしました
パブリックドメインとして公開されている楽譜データをもとに、44曲をピアノ独奏用に音にしました。全44曲、1時間2分45秒です。
先にお伝えしておきます。この演奏は、サンプリング音源による合成です。人間の演奏ではありません。
それから、この企画を「録音」とは呼ばないことにしています。楽譜データを音に変換したもので、演奏解釈の入った録音とは別のものだからです。近年、彼女の歌曲は欧米で研究や録音の対象になりつつあって、歌手とピアニストによる本物の演奏も存在します。それに置き換わるものではなくて、まず音として存在しないものを聴けるようにする試み、として受け取っていただけたらと思います。
全曲(YouTube・全44曲1時間2分45秒)
44曲すべてを通しで公開しています。説明欄のチャプターから、曲ごとに飛べます。作品6から作品19へ、短調の扱いが変わっていく流れを追うなら、こちらを頭から聴いてみてください。
試聴(YouTube・2分45秒)
先に6曲だけ聴きたい方はこちらへ。
アルバム(BOOTH・全44曲1時間2分45秒)
https://songflowstearoom.booth.pm/items/8712857
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- 150曲を書いた人が、誰にも知られていないということ ― ジョゼフィーヌ・ラング(忘れられた歌 Vol.1)
キンケルと同じ時代に、同じくメンデルスゾーンに見出された人です。こちらは短調で終わる曲がひとつもありません。作品番号順に聴いたときの印象が、二人でまるで違います。
出典
- Wikipedia (English), "Johanna Kinkel" — https://en.wikipedia.org/wiki/Johanna_Kinkel
- Oxford Song, "Johanna Kinkel" — https://oxfordsong.org/composer/johanna-kinkel
- Encyclopedia.com, "Kinkel, Johanna (1810–1858)"
- MUGI (Musik und Gender im Internet), Hochschule für Musik und Theater Hamburg — https://mugi.hfmt-hamburg.de/receive/mugi_person_00000422
調・拍子・演奏時間は OpenScore Lieder Corpus(CC0)の楽譜データから実測したものです。

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