こんにちは、歌流茶亭の星海奏です。
新しいシリーズが始まりました。「忘れられた歌」といいます。楽譜だけが残っていて、音として聴ける機会がほとんどない曲を、ひとつずつ音にしていく企画です。
その第1巻に選んだのは、ジョゼフィーヌ・ラングという人の歌曲集でした。
正直に言うと、私もこの名前を知りませんでした。調べていくうちに、手が止まった瞬間がありました。この人、生涯に150曲以上の歌を出版しているんです。それだけ書いた人が、日本語で検索してもほとんど何も出てこない。その落差が、どうしても飲み込めませんでした。
歌う母から、歌を教わった人
ジョゼフィーヌ・カロリーネ・ラングは、1815年3月14日、ミュンヘンに生まれました。
お父さんはヴァイオリン奏者。お母さんのレギーネ・ヒッツェルベルガー=ラングはオペラ歌手でした。最初にピアノを教えたのは、その歌手のお母さんです。
私は歌をうたう人間なので、この一点がずっと引っかかっています。歌手が最初の先生だったということは、彼女は音楽を「指で押さえるもの」として習う前に、「息で運ぶもの」として覚えたはずなんです。実際に彼女の歌曲を弾いてみると、旋律の切れ目が息継ぎの位置と自然に一致します。歌える長さで区切られている。そういう書き方をする人でした。
11歳のときには、もう人前で演奏していたそうです。
習うのをやめて、教える側になった11歳
ただ、家はお金持ちではありませんでした。
本格的な音楽教育を受ける費用が出せなくて、彼女は子どものうちからピアノを教える側に回ります。習う立場を続けられなくて、教える立場になった。
同じころ、メンデルスゾーン家の子どもたちは、銀行家の家庭で当代最高の先生をつけてもらって育っています。この差は、才能とはまったく関係のないところでついたものです。
作曲を始めたのは13歳のときでした。
1830年、メンデルスゾーンが見つけた
1830年、イタリアへ向かう途中でミュンヘンに立ち寄ったフェリックス・メンデルスゾーンが、15歳の彼女に会います。
翌年、彼は家族に宛てた手紙で、その才能を熱っぽく書き送りました。独創的だ、感受性が並外れている、と。そして自分の人脈を動かして彼女を世に出そうとし、作曲のレッスンまでつけています。
ここで、どうしても書いておきたいことがあります。
同じメンデルスゾーンは、実のお姉さんであるファニーには、作曲家として世に出ることを勧めませんでした。身内には慎重で、他人の才能には惜しみなく手を貸した。その理由をここで論じることはしませんが、彼がそこまでした相手が誰だったのかは、知っておいていいと思うんです。
1830年代が、彼女のいちばん多作な時期になりました。ロベルト・シューマンも『新音楽時報』で、彼女の歌曲を好意的に取り上げています。当時の音楽界でいちばん耳のいい二人が、そろって認めた人でした。
7年で6人
1842年、彼女は法学教授のクリスティアン・ラインホルト・ケストリンと結婚します。夫は詩人でもあって、彼女は夫の詩に曲をつけました。
でも、この結婚生活は平坦ではありませんでした。夫婦ともに健康に恵まれず、宗派も違いました。彼女はカトリック、夫はプロテスタントです。お金にも苦しみました。そして7年のあいだに、6人の子が生まれています。
作曲には、まとまった時間と静かな部屋が要ります。6人の子どもがいる家に、そのどちらもありません。
1856年、そしてもう一度、教える人へ
1856年、夫が亡くなります。ここから彼女は、極度の困窮に入りました。
6人の子を抱えて、彼女は声楽とピアノを教えて生計を立てます。11歳のときと同じです。習うことを諦めて教える側に回った少女は、41歳でもう一度、生きるために教える立場に戻りました。
転機は1867年でした。作曲家のフェルディナント・ヒラーが彼女についての伝記的なエッセイを発表して、名前がふたたび知られるようになり、支援も集まります。クララ・シューマンが作品の出版を仲介したという記録も残っています。同じ時代を生きた女性の音楽家同士の、具体的な助け合いです。
1880年12月2日に亡くなりました。後年、息子のハインリヒ・アドルフ・ケストリンが、母の伝記を書いています。
収録曲について
ここからは、Vol.1に入れた25曲を、作品番号ごとにご紹介します。
曲順は作品番号順に並べました。出版の順におおむね対応するので、この人の歩みをそのままたどる並びになっています。
調や拍子は、私たちが使った楽譜データから実際に読み取ったものです。テンポについては、楽譜データに記録された数値であってラング自身の指定とは限らないので、曲どうしの速い遅いを比べる目安として読んでください。
作品8(3曲)— 蝶、遠く、永遠
アルバムはここから始まります。「蝶」「遠くへ」「永遠の近さ」。題名を並べただけで、ひとつの流れになっています。
2曲目「遠くへ」はハ長調の3拍子で3分31秒。この曲集の中心です。「遠く」へ行く曲がいちばん長くて、「永遠の近さ」を歌う3曲目は1分44秒で終わる。遠いものほど時間がかかって、近いものは短い。そう並べたのだとしたら、ずいぶん洒落たことをする人です。
1曲目「蝶」はヘ長調の2拍子。軽く始まって、すぐ次に渡します。
作品10(6曲)— 「ミニョンの嘆き」と、最初の「別れ」
6曲組です。2曲目「ミニョンの嘆き」は、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』に登場するミニョンの歌に曲をつけたもの。この詩にはベートーヴェンもシューベルトもシューマンもチャイコフスキーも曲を書いていて、19世紀の作曲家にとっては腕試しのような題材でした。ラングもそこに自分の答えを出しています。ニ長調の4拍子で1分44秒。悲嘆を大づかみに描くのではなく、淡々と進める解釈です。
4曲目「春に」は、25曲でいちばん速い曲です。変ニ長調の4拍子で駆けていきます。6曲目は「別れ」。この曲集は別れの言葉で閉じられます。
作品11(6曲)— 6曲で7分半
6曲あわせても7分半しかない曲集です。
特に6曲目「秋に」は、8分の3拍子で26秒。25曲の中で最短です。26秒で終わる曲を6曲組の最後に置く。言い切って、去っていく感じがします。
対照的に4曲目は、作品10の最後と同じ「別れ」という題。ニ長調の3拍子で、いちばん遅いテンポのひとつです。同じ言葉に二度、違う曲をつけている。速い曲と遅い曲が交互に並ぶ作りになっていて、1曲1曲は短いのに、6曲通すと起伏が生まれます。短い曲を組にして出版する意味は、たぶんここにあります。
作品20「小川のほとりで」/作品22「旅路にて」
歌曲集が3つ続いたあと、単独で出版された2曲が挟まります。
作品20は変ホ長調の2拍子で、1分に満たない小品です。いきなり本題に入って、いきなり終わる。この短さが、19世紀の家庭音楽のリアルな姿だと思っています。応接間で、誰かが弾いて、誰かが歌って、終わったら次の話題に移る。そういう時間の中にあった音楽です。
作品22はロ長調の4拍子。「旅路にて」という題のとおり、歩いていくような一定の運びがあります。
作品23(3曲)— 揺れる拍子
この3曲は拍子が特徴的です。1曲目「南の国で」が8分の9拍子、3曲目「天とすべての太陽が私のものであっても」が8分の6拍子。どちらも1拍が3つに割れる複合拍子です。
2拍子や4拍子が「歩く」拍子だとすると、複合拍子は「揺れる」拍子です。舟に乗っているような動き方をします。ラングはこの拍子をよく使う人で、25曲中5曲が複合拍子でした。
あいだの2曲目「あなたが私のものだったなら」は変ニ長調の4拍子、1分ちょうど。3曲の中で唯一まっすぐな拍子です。
作品28(2曲)— アルバムでいちばん長い曲
2曲目「心よ、わが心よ、おまえも黙れ」が、25曲でいちばん長い曲です。4分あります。テンポもいちばん遅い部類で、ハ長調の3拍子。
この曲だけ、明らかに書き方が違います。ほかの曲が1分から2分で言い切るのに対して、この曲は同じ素材を何度も形を変えて出してきます。題名のとおり、黙れと自分に言い聞かせながら、ぜんぜん黙れていない。そういう長さです。
1曲目「夢の面影」はヘ長調の3拍子で1分44秒。対になる短さです。
作品36(3曲)— いちばん遅い曲で終わる
アルバムを締めくくる曲集です。テンポの振れ幅がおもしろい3曲が並びます。
1曲目「遠い昔にも小夜啼鳥は歌っていた」はホ長調の3拍子で、ゆったりと始まります。2曲目「ざわめけ、ざわめけ、楽しい小川よ」はイ長調の2拍子、わずか46秒。題名のとおり勢いよく流れて終わります。
そして3曲目「ごきげんよう」が、アルバム全体でいちばん遅い曲です。変ホ長調の2拍子で3分。いちばん短い部類の曲といちばん遅い曲が隣り合っている。この落差の付け方は意図的なものだと思います。
11歳で人前に立ち、教えるために習うことを諦めて、6人の子を育てながら150曲以上を書いた人の歌曲集が、別れの挨拶で終わります。
短調の曲が、ひとつもありません
全25曲を調べていて気づいたことがあります。
終わりの和音から判定できた21曲は、すべて長調でした。判定しきれなかった4曲を含めても、短調で終わる曲はひとつもありません。
これは偶然ではないと思います。彼女の人生は、経済的な困窮と、6人の子と、夫の早すぎる死でできていました。それでも書いた歌は、暗く終わらない。
もちろん、当時の家庭音楽が明るい曲を求めたという市場の事情もあったはずです。売れる曲を書く必要が、彼女には切実にありました。でも、150曲以上を書いてひとつも短調で終わらせなかったというのは、事情だけでは説明しきれない気がしています。
「サロンの音楽」と呼ばれてきたことについて
19世紀の女性作曲家の作品は、よく「サロン向けの小品」と言われます。本格的ではないもの、という含みでです。
でも、この評価には順序の倒錯があります。
彼女たちが小さな声楽曲を書いたのは、それしか書けなかったからではありません。オーケストラを動かす機会も、オペラを劇場にかける立場も、女性には与えられていなかったからです。書ける場所が家庭とサロンしかなかった人に対して、「家庭とサロンの音楽しか書かなかった」と言うのは、逆さまです。
それに、歌曲は決して二流の形式ではありませんでした。シューベルトも、シューマンも、ブラームスも、この形式に最良の仕事を残しています。ラングが150曲以上の歌曲を書いたというのは、彼女がこの形式を選んだということです。
音にしました
パブリックドメインとして公開されている楽譜データをもとに、25曲をピアノ独奏用に音にして、1枚のアルバムにまとめました。全25曲、49分12秒です。
先にお伝えしておきます。この演奏は、サンプリング音源による合成です。人間の演奏ではありません。
歌の入る曲を、ピアノだけで演奏しています。これは19世紀にリストが盛んにやっていた形式で、代用というわけではありません。歌詞がないぶん、メロディの線と和音の動きが、かえってまっすぐ耳に入ってきます。
歌う人間としては、歌詞のない歌を聴くのは少し不思議な体験でした。誰も歌っていないのに、ここで息を吸うんだな、というのが分かるんです。歌手のお母さんに教わった人が書いた歌だからかもしれません。
全曲(YouTube・全25曲49分12秒)
25曲すべてを通しで公開しています。説明欄のチャプターから、曲ごとに飛べます。
試聴(YouTube・2分45秒)
先に6曲だけ聴きたい方はこちらへ。
アルバム(BOOTH・全25曲49分12秒)
https://songflowstearoom.booth.pm/items/8712225
夜、ひとりでいるときに流してもらえたら嬉しいです。150年前の応接間で鳴っていた音楽が、そういう時間にちゃんと届く気がしています。
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- 夫を監獄から脱獄させた作曲家 ― ヨハンナ・キンケル(忘れられた歌 Vol.2)
同じ時代に、同じくメンデルスゾーンに見出された人です。ラングが短調で終わる曲をひとつも書かなかったのに対して、キンケルは11曲書いています。読み比べると、二人の違いがはっきりします。
出典
- Wikipedia (English), "Josephine Lang" — https://en.wikipedia.org/wiki/Josephine_Lang
- Oxford Song, "Josephine Lang" — https://oxfordsong.org/composer/josephine-lang
- Encyclopedia.com, "Lang, Josephine (1815–1880)"
- Women's Philharmonic Advocacy — https://wophil.org/josephine-lang/
調・拍子・演奏時間は OpenScore Lieder Corpus(CC0)の楽譜データから実測したものです。
